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~ ただなんとなく、イナカたる所に住んでいる猫田ジャレの非日常なる日常 ~  

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●信州児童文学会誌 『とうげの旗』 第2号 (2012年10月25日発行)

レポート記事が載りました。(以下、すべての文章に於いて当雑誌編集部に掲載許可済み)




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信州児童文学会会報 『旗に風』44

~ 特集:はまみつをさんを偲ぶ会 ~ より

『浜先生を偲ぶ会・報告』 田中玲子

5月27日(日)、松本の東急インにて、昨年2月にご逝去された、『はまみつをさんを偲ぶ会』が催されたので行ってきました。中々に、素敵で、とても良い会でした。
 午前中が「はま文学と人生を語る」という、はま作品の朗読や、人となりや作品を語るパネルディスカッションなどを含む内容。中でも、「パネルディスカッション」は、とてもよかったです。
 パネラーは、はま先生がコラムを連載されていた新聞、市民タイムスの編集委員であり、数ヶ月に一度会食されながら論議を交し合うほどに、はま先生と親交の深かったという、赤羽康男さん、信州児童文学会より、一緒に会設立に加わり、親交も深かった和田登先生と、若手代表の山崎玲子さんの3人。はま文学やはま先生の人となりを、実に的確に、魅力的に、ご自身との楽しかった思い出話(はま武勇伝を含む)を交えながら、語ってくださいました。
 中でも印象深かったのは、和田先生のおっしゃられていたことで、はま先生は詩を沢山読まれていたせいか、語彙が豊富で、また「直観力」にも優れていたので、その直観力から続々と短編を生みだされた、ということ。はま先生は生前、
「文学というのはつぐないである。救われたいがために書く。文学というのは、悲しい心をもったもの、傷ついたものだけがわかればいい。みんながみんな、わからなくてもいい」、
とおっしゃっていたそうで、とても共感しました。 
 それから、自分は教員になりたくてなったわけではなく、教師くらいしかなるものがなかったから仕方なくなったという、挫折感から出発している、とおっしゃって、一時期は執筆と教員との両立に悩まれていたそうで、毎日、睡眠5時間で執筆活動に、10年当たられていたということ、また、同僚の出世に嫉妬したり苦しまれていたと言うことなど、初めて知ることも多かったが、自分と似ているところがあるのかなぁーと、おこがましくも思ったり、共感を呼ぶ部分が多く感じられました。また、

「文学とは、ものにならなければ全人格を否定されてしまう。だから、文学で成功しなければならない。」
とおっしゃっていられたというが、それは、全く同じことを私も常日頃思っているので、まさに同感だ、と思いました。
 自分が日ごろ文学(書くこと)について思っていること、悩んでいることなどが、はま先生のおっしゃっていた、という言葉のひとつひとつによって、まさに実証されていくような、これでいいんだ、と実感していくような、そんな時間をもてたことは、大きな収穫でした。
 じん、と胸にきました。ほんとうに、生前はま先生と、もっともっとお話をしたかったです。
 午後は会食をしながらの、各方面の方々からのスピーチやスライド上映などがされる会で、特に信州児童文学会会員の方々のスピーチは、さすが童話を書いていらっしゃるだけあって、みなさんお上手でした。
 名誉会長の高橋忠治先生は、4月に木曽にて行われた、牛丸仁先生のご葬儀でも弔事を読まれましたが、その、文章のうまさだけでなく、切々と訴えられるような重みのある言葉(音声を含む)のひとつひとつに、じん、となります。まさに、絶品。
 同じく名誉会長であられる宮下和男先生と、会員であり、はま先生とも親交の深かった滝沢喜和子さんの訴えかけられるようなスピーチも、胸を打ち、はま先生がご逝去されて一年以上たつのだもの、まさか、と思いながらも、私は泣いてしまいました。  
 はま先生の実弟であられる濱哲郎さん、ご子息の濱秋彦さんも、さすがはま先生の血筋、お声といい、話術といい、人を惹きつける名スピーチで、大変感動しました。ここでも、涙。
 お料理もおいしかったし、ご葬儀のときは車で行って飲めなかったので、今度は車を使わずに、みんなと同じように「しっかり飲まなかったらはま先生に怒られるから」と電車で来た、という、久しぶりにお会いした松永さんと隣り合わせて、しっかり飲ませていただきました。また、二次会の「お茶会」では、はま先生と宮口しづえ先生の、誰とケンカしただの、ケンカして会を途中で出て行っただの、その後しばらく会に来なかっただの、また、お酒を飲んだゆえの奇行、武勇伝(このお二方は、本当によく飲まれ、しかも飲んでなくても武勇伝が色々すごい・笑)などの思い出話に花が咲き(大先生方のお話をただ聞くだけなのだが、これがおもしろいのなんのって。ああ、宮口先生に、生きているうちに一度でもお会いしてみたかった!! 女性なのに、すごい豪傑。しかも、あの、文章から想像できません)、楽しく帰ってきました。  
 宮口しづえ先生を愛して止まなかったはまみつを先生ですが、このお二方は、豪傑ゆえに敵も多かったみたいですが、でも、どこか憎めない、愛すべき方たちだったのだろうな、と思います。
 その、純粋で真っ直ぐなお人となりと、情熱と才能と。そして、なんといっても、努力と。
 私には、才能はもちろんですが、情熱と努力が、まだまだ全然足りないなぁー、と思い知らされたことです。 
 ここで、はま先生を偲ぶ会に参加させていただき、はま先生の「誠の文士」(羽生田敏会長弁)たる、まさに命を削るように書いてこられた、壮絶な生き様に触れ、また、他の出席された同人の方々からも色々と刺激を受けられたのも、何かのご縁に違いない。私もちゃんと書いていかなくては、と強く思いました。
 いつか、はま先生に認めていただけるようなものが、書けたらいいですね。

また、偲ぶ会では、出席された方全員に、はま先生が生前愛用されていたという「トンボえんぴつ(赤と黒が一緒になったもの)」、罫線の幅が太い「ツバメノート」、そして、はま先生が“福の神”といって愛されていた「フクロウ」の寝付け(はま先生の奥様のお姉様が、ひとつひとつ全部手作りしてくださったそうです)が記念品として配られました。

フクロウの根付は愛用のパソコン前に、筆記用具は、もったいなくて使えないので、書斎に飾って、お守りにしています。

はま先生、その、快活な笑顔で、いつまでも私たちのことを、温かく優しく、見守っていてください。そして、時には、その「強面」で、ガツン、と一発、渇を入れてくださいね。

※ なお、雑誌本文は縦書き、「偲ぶ会」中の写真が数点使われています。
このページの記念品写真は著者による。




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●~ 追記 ~ 『はまみつを 追悼』

信州児童文学会  

(別冊 とうげの旗:平成24年2月22日発行む) 

『永遠に風の中』     田中 玲子

 

2月のある日、はま先生の悲報を知らされた。まさか、と思った。あまりに突然のことに、言葉を失い、愕然とした。と同時に、ああ、間にあわなかったか。どうしようもない後悔の念が私を襲った。

 

昨年の夏の会で『とうげの旗』の今後の方向性を決める、重要な会議があった。その中で、はま先生が実に重要な、本質を突いたことをおっしゃられた。

私はその発言を聞いて、なんてすごいことをおっしゃる方なのだろうと、心底、感動した。また、まったく自分の考えていることと同じであった点もあり、それがすごく嬉しかった。

そのあとで、司会者に意見を求められので、果たして、こんなことを言ってもいいものだろうか、という不安を抱きつつも、私は心のうちを正直に話してみた。言わずには、いられなかったからだ。言い終えたとき、本当に冷汗の出る思いであった。うまく伝えられたかどうかもわからない。が、言ってしまったという後悔よりは、満足感の方が強かった。

会議の後、ふと遠方に座っておられた、はま先生が、私の方を見て「田中さぁーん!!」と、手をふってくださった。その、力強い声を聞いて、ああ、受け入れてもらえたのではないだろうか、

と、勝手に解釈した。

安心感と心強さが湧いてきて、すぐにでもはま先生のところに駆け寄りたいような心境になった。が、不器用ではにかみ屋のため、たぶん私は何もできず、その場にただ立ちすくんでいたと思う。

はま先生は、翌日の早朝からご用があるとかで、その日は宿泊せずに帰るという。それでは、はま先生をお見送りしましょう、と他の会員の方たちの提案で、ホテルのロビーにたむろして、わいわいと、迎えの車が来るのを、先生と一緒に待っていた。

大勢の人が見送りにきたためか、はま先生は終始ご機嫌で、いつものように冗談を飛ばし、快活に笑われ、楽しそうにしておられた。

 私はやはり何も言えなくて、帰り際になってようやく、「先生、手紙書きますから。」やっとのこと、それだけ伝えたのだった。

はま先生は、このとき何もおっしゃらなかったので、私の言った言葉が、ちゃんと聞こえていたものかどうかはわからない。が、せめて、それだけでもお伝えせずには、いられなかったのだ。

言葉でうまく伝えられない場合、私は昔から、よく「お手紙」を書く。書くほうが、自分の思っていることを、素直に伝えられるからである。

 

はま先生の訃報に接したとき、びっくりしたのと同時に、私はものすごく、後悔をした。先生にお約束した「お手紙」は、結局書けなかったからだ。理由の詳細は書かないが、もう少し自分が落ち着いて、考えもまとまって、何らかの方向性や自信が出てきたら、と思っていたのだが、その機会は、ついに永遠に失われてしまった。

永久に、私の気持ちをお伝えすることが叶わなくなってしまったことは、後悔しても、しきれるものではない。

 

また、はま先生は、昨年6月から7月にかけて、自身の活動の集大成とも言うべき「はまみつを童話のせかい展」を開催されたばかりでもあった。それを見に行った私は、会場で偶然、自分の取材を受けるために来場されていたはま先生と遭遇した。はま先生は私に気づくと、にこやかに笑ってくださり、私は大変幸せだったし、展覧会の感動が2倍にも3倍にもなったものである。

先生、ご自由にお持ちくださいという、昔の「とうげの旗」を、ごっそり抱えて幸せな面持ちで帰っていったのは、何を隠そう、この私なんですよ。それからはま先生が幼少の頃感銘を受けたという北川千代さんの布張りのご本『絹糸の草履』、古本サイトで見つけて買ったんです! などなど。あのとき、展覧会の感想とお礼状を、すぐにでも出しておくべきだったのだ。そしてせっかく自身のHPに、とても素晴らしくて感動した展覧会の感想などを、記事として書いてUPしていたのに、そのお知らせもしていなかったし、パソコンをおやりにならないはま先生のために、HPの文をプリントアウトして、感想と共に見て頂くつもりでいたことも、実行に移せなかった。目先の雑務にかまけて、ダラダラと先延ばしにしてしまう悪い癖が出てしまったことを、ひたすら恥じるしかない。ただ夏の会で、先生の「童話のせかい展」でのお礼を、ご挨拶程度にお伝えしていただけだったのが、なんとも悔やまれる。

 

私は、はま先生と出会ってからまだ5年足らず、それも夏の会と3月の総会と、年にせいぜい、大勢で2回会うのが関の山だったので、みなさんのように、そんなに沢山、はま先生との思い出があるわけではない。まず、こんな新参者の私でも、追悼の思い出を書くことを許していただけるのなら、という前提の上で、おこがましいことを承知で言わせていただけるのなら、それでも、その短い中にも、強烈に心に残っている話や、楽しかった思い出が色々ある。はま先生はそれだけ、インパクトの強い、個性的な、楽しい方だった。何しろ入会して一番最初の、五十周年記念会での二次会で、いきなりはま先生と画家の北島新平先生との喧嘩、というより、はま先生の一方的な北島先生への糾弾?を見てしまったのだから。(笑)

と、同時に、どこか近寄りがたい雰囲気も持っていらして、私なんかが気軽に喋りかけられないような気もしていた。

それは、あの、ニコリともせずに冗談を飛ばす“強面”のせいでは決してなく、どこか孤高の人、といった雰囲気があったからである。告別式で弔辞を読まれた羽生田、和田両先生は、はま先生のことを、本当の“文士”であった、と讃えられた。

はま先生は生前、「この年になったら、本物とだけ付きあいたいよ」と親しい方によくおっしゃっておられたそうだが、もしも、受け入れてもらえなかったらどうしよう。私の考えなど取るに足らないと、心の中で切り捨てられてしまったら・・・。私が「本物ではない」と見抜かれてしまったとしたら・・・。それはとてつもないほどの恐怖である、というのを、どこかで感じ取っていたのかもしれない。

 それでも、はま先生には、まだまだ聞いてほしいこと、お話したいことが、山ほどあった。

はま先生なら、なんとおっしゃってくださったかな。ちょっと怖いけど、聞いてみたかった。

「田中さんのはね、文学じゃないよ」、って言われちゃうかな。そうしたらまた、落ち込むのかな。

 

お清めの席で、はま先生の絶筆となった市民タイムス1月27日付のコラム『甘柿 渋柿』の、生原稿のコピーが回ってきた。タイトルは「シメ切り」。

はま先生は、何を思ってこれを書かれたのだろうか。人生、最後のシメ切りを力を振り絞って、律儀に守られて、旅立たれようとしている。シメ切りとは、自身の人生の終焉のことをも、さしているのか。それははま先生の、壮絶な作家人生をまさに物語っていた。

それにしても、これから先、はま先生のいない総会も夏の会も、何より、はま先生のいない信州児童文学会なんて、寂しすぎ、つまらなすぎです。

あのときは夢にも思わなかったが、夏の会で、みんなでわぃわぃとはま先生をお送りしたのが、結局それが、信州児童文学会の仲間との、最後となってしまった。

はま先生は、きっと寂しがりやだから、ああやって楽しく、にぎやかにお別れできて、よかったのかもしれないな。やっとそう、思えるようになった。

 記憶の中のはま先生は、実に楽しそうに、ずっと笑っていらしたまま、である。

 

あのとき「来年、」といいかけて、「いや、いい」と、いたずらっぽくかぶりを振った笑顔は、なんだったのかなぁと、ずっと気になっていたけれど、はま先生、それはきっと、このことですか?

病床で推敲されていたという、最後のご著書『信州むかし語り2 山と民の話』が、お亡くなりになったあとに刊行されましたね。

それとも、もっと楽しい、ヒミツの計画でも、あったのですか?

答えは、永遠に風の中、である。

 

※ 雑誌での本文は縦書き。

※ ブログでは 
はまみつを先生を偲ぶ会  (2012年05月28日 | 本・文学・取材等
心残り (2011年02月27日 | 本・文学・取材等

をご参照ください。(クリックすると行かれます)

※ なお、本文中にて触れられている 「HP記事」 はHPリニューアルにつき、現在ご覧になれなくなっています。あしからずご了承ください。


 




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●『とうげの旗』 第6号 (2014年2月25日発行) にレポート記事が載りました。

信州児童文学会会報 『旗に風』48.より

底本 高橋忠治全詩集』 出版記念会 報告

                      田中 玲子

 

 信州児童文学会の名誉会長であられる高橋忠治先生の、これまで出された4冊の詩集をもとに一冊にまとめた底本 高橋忠治全詩集』が、平成25年5月29日に小峰書店より発行されました。

 そのお祝いの会が同年9月1日 ホテルメトロポリタン長野にて開催され、私も参加させていただきました。

 高橋先生の詩は、生まれ故郷飯山や、代用教員時代に見た北信濃の雪深い静かな村で、貧しくも懸命に生きる人々の神々しさに満ちた、素朴で温かい世界が広がっている。

またあるいは、虫や動物、植物などの小さな生き物に対する、同じ目線に立つ鋭さと愛おしさが、ぬくもりを持って伝わってくる。そして時にはそれが、詩というよりはむしろ哲学的な寓話となって、読むものに新鮮な驚きと、深い思慮とを与えてくれる。

お祝いの会は、そんな詩人高橋忠治の世界を髣髴とさせるお洒落でセンスのいい、それでいてあたたかみのある、素敵な会でした。

まず初めに発行元である小峰書店社長の小峰紀雄さん、詩人の野呂昶(さかん)氏のご祝辞がありました。

そしてその後は、角田忠雄さんの奏でるギターに乗って高橋先生の詩を美咲蘭さんの美しい声で読み上げる「朗読」や、先生の詩に作曲家の吉本隆行さんが曲を付けたものを、末高明美さんのキーボード演奏と美しきソプラノ小島美穂子さんとで歌い上げた「歌唱」、そして桂聰子さんによるフルートの演奏などもあり、先生の交友関係の広さがうかがえます。

また、文学関係者のみならず、かつての教師仲間、教え子の方々も多く駆けつけ、先生との思い出や感謝の気持ちなどを力強く、またユーモアを交えて祝辞を述べられる様は、さながら同窓会のようで、とてもなごやかな良いお席となりました。

教え子の方たちが高橋先生から詩を書く喜びや国語の授業の楽しさを教えてもらったように、詩人高橋忠治は、子供たちの純粋な気持ちや眼差しから多くの発見や刺激、感動を得て、それを言葉にしてきたという、まさに望むべき師弟関係をはるかに超えた絆がそこにはあるように思えました。

最後は、地元で建築業を営む教え子代表野沢仁さんによる、力強い「木やり」が場内に響いて、祝いの席をさらに盛り上げ、長年夫を支え、力になりながらも、体調を崩されているために会に参加できなかった奥様の景子さんからの温かいお手紙が読み上げられ、クライマックスを迎えました。

夏の会で何度かお目にかかったことがありますが、奥様はとてもお美しくて品がある、おっとりとした方で、まさにおしどり夫婦です。

当日は、予定していた人数を上回る参加があり、急きょ会場が広いところに変更になるなど、先生のお人柄を思わせる嬉しい誤算もあったようで、会が終わると、たくさんの方々が押し寄せて、にこやかにしていらっしゃる高橋先生は、とてもお忙しそうでした。 そんな中で、やっとの思いで高橋先生に近づくと、先生は私を見つけるなりニコニコと笑って、「遠くからわざわざありがとう」と深く頭まで下げてくださったので、とても感激しました。お荷物になるとは思ったのですが、Kの和菓子などを土産に持参していたのでお渡しして、ずうずうしくもちゃっかり、ご一緒にお写真を撮っていただいたりしました。

その上さらに、2次会のお席で運よく高橋先生の隣の席になれたので、奥様の体調のことなどお尋ねしましたが、明るく淡々とお話をされる先生のお言葉の中からも、奥様を気遣うご様子や、この年になって長年住み慣れた土地を離れ、よその地で暮らしていくことの大変さがひしひしと伝わってくるようでした。

幸い、転居先の息子さんのお仕事(ご自宅)は住職さんなので、横浜でも都会の喧騒を離れた広い境内が、せめてもの慰めのようでした。この日は長野市内のご自宅に泊まられるそうで、月に一度くらいは家に風を入れたり、植木などを見るためにご自宅を見に戻られるとおっしゃる先生は、なんだか少し嬉しそうでもありました。

 

じろばた とんとん

じろばた とんとん

さあ、何の音かいな。

 

擬音をとても大切にされ、独特の「高橋忠治音」を多く生み出されている先生が、お願いした詩集の見返しに、かわいらしい文字で書いてくださったお言葉は、なつかしいふるさと信州の言葉であり、また先生の、今生きておられる時間のようでもあり、いとおしくてせつなくて、暖かいひびきに満ちていました。

少年のように澄んだ瞳と、時折お茶目なかわいらしさをも持っておられる高橋忠治先生。

ふるさとを遠く離れても、庭先でふと見つけた命の輝きや、都会の片隅に息づく人知れない風景の断片など、これからも折に触れ、あたたかくも美しいお言葉で、どうか紡ぎだしていってください。

そのお言葉が聞かれるのを楽しみにしています。

高橋忠治先生、素晴らしい詩集と、心温まる素敵なお祝いの会を、どうもありがとうございました。       




高橋忠治先生出版記念会より

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お祝いの花束を手にされる高橋先生
(かなりピンボケでお恥ずかしい写真ですが)

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≪ ずうずうしくも高橋先生との2ショットを撮らせていただいてしまいました ≫

あまり出来の良い写真ではなかったのですがお送りしたところ、先生はとても喜んでくださって、写真掲載も快諾してくださいました。

また、それに先立ち 『とうげの旗』 に私の拙報告文を載せていただきましたところ、ご丁寧なお礼状を頂いしてしまい、大変恐縮してしまいました。
先生から頂戴したお葉書は大切な宝物です。ありがとうございました。