印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |


~ ただなんとなく、イナカたる所に住んでいる猫田ジャレの非日常なる日常 ~  

undefined


日本児童文学2011.9-10号.jpg

『日本児童文学 9-10号』 (2011年発行)

『日本児童文学』2011.7.8月号紙面批評

「若者よ! 革新的であれ」  田中 玲子

  未曾有の大地震が起こり、誰もが生きることの意味を、再確認している昨今に、7・8月号の『学生の児童文学運動いまむかし』というテーマは、興味深いものがあった。日本児童文学界を牽引してきた、早稲田大学児童文学サークル(旧早大童話会、少年文学会)と、東京学芸大学児童文化研究部「あかべこ」という、二大サークル出身の「先輩」達と、現役大学生達との座談会である。

 一貫して語られるのは、「時代性」。戦後、復興と共に、民主主義と経済成長が期待されたあの頃、日本中が一つになり、活気に満ち溢れていた。そして「子供のための文学」が、時代を切り開いてゆく「新しい子ども像」に裏打ちされて、次々と世に送り出されていく。今となっては、眩しく、羨ましいほどの時代である。

 では、この混沌とした、「現代」においてはどうであるか。「みんなで○○しよう」というと途端にシラける、など、明らかに他者とのかかわりを拒絶するかに見えて、その実、ケータイやメール、ツイッターなどの新しい「手段」において、他者とのつながりを、焦がれるほどに求めている。恋愛シュミレーションゲームなども、他者と交わり、時に傷つくことを恐れるための防御策なのだろう。

 皿海達哉先生の「現代の若者には正義感と思想がない。反骨なくては青春なし」には同感である。かつての若者というのは、常に大人や社会に対しての反骨精神に満ち溢れていて、それらが何物かを突き動かすエネルギーとなっていた。今は、妙に物分りのいい大人の下、表向きは大人しい、やはり物分りのいい子ども(若者)がいて、それがある時突然キレたり、とんでもない行動に走ったりするのだから、現代の社会構造と、そこに生きる人間心理は、まさに複雑怪奇である。

 折りしも、私の在籍している信州児童文学会で、六十年続いた『とうげの旗』という児童読み物雑誌が、購読者の激減により、2年に及ぶ協議の末、これ以上の発行は不可能と判断、ついに今年度を持って発刊打切りということになった。

 当雑誌編集長の西山利佳さんとは、かつて全関教ゼミや全児連の文学分科会で、一緒に激論を戦わせた仲である。そんな学生活動も、90年代に消滅してしまったと聞けば、寂しさよりも、ああ、仕方もあるまいな、と正直思ってしまう。

 2011年度の『二賞発表』における「選考評」で、上、皿海両先生が、「受賞作なし」だと思っていた。「もっぱら周囲五百メートル範囲内に終始していて社会性が薄い」(佐々木赫子先生)、「かつての<童心主義>に近い<ほのぼの物語>」(上笙一郎先生)と評価されていた点も興味深く、この現象は、若者だけでなく、我々書き手にも迫ってきているのかと危惧する。

 ともあれ、座談会最後の方で、宮井千佳さんのおっしゃっていた、今の子どもも「人とつながっていたいという思いは変わらない。そこに対して文学ができることを信じたい」、という言葉に、私も未来を託したいと思う。同氏は「いつの時代にも書きたい人はいる。学生さんには、この火を絶やさないでほしい。」とも。
 
 やはり私も最後には、学生や若い書き手へ、自責の念も込めつつエールを送ろう。「若者よ、革新的であれ!」と。



※『日本児童文学』編集発行元である日本児童文学者協会より掲載許可を頂いております。



また、本文中に登場されている上 笙一郎(かみ しょういちろう)先生は、 2015年1月にご逝去されました。亡くなる直前までとてもお元気で精力的に活動をされており、その年の夏に開催される 「信州セミナー」 にもお越しいただく予定でおりましたので本当にびっくりしました。
学生時代よりご著書で学ばせていただき、夏のセミナーにもし参加できたら、恥ずかしながらこの時の雑誌のお話などもしたいと思っておりましたので、残念でなりません。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。